佐倉




2009年12月23日


佐倉
千葉県の成田の手前に
(うちの方から見ての話ですね)
佐倉という街がありますね。
誰でも知ってるよ!
筆者は農家育ちですので
家の敷地の一角に佐倉宗吾様の小さな社がありました。
ですから佐倉と言えば佐倉宗吾様なんですよね。
それで佐倉の街を見に行ってみることにしました。
ところが調べてみると
宗吾様は佐倉の名前は冠していますが
佐倉の市街地とはかけ離れていて
京成佐倉駅から3駅ほど先の
宗吾参道駅が最寄りの駅なんですね。
で、今回は僕たちは見所の多い佐倉市街を優先して
宗吾霊堂は又の機会に譲ることにしました。

日暮里から京成線に乗って佐倉駅まで行きます。
この線はJR成田線と並んで昔から成田空港への鉄道として
広く利用されています。
今はいろいろなバス会社が
各地からリムジンバスを出していますので
乗降客が分散していますね。
そのせいか今回この鉄道に乗ってみたら
中国人や韓国人が多く乗っていたのでビックリしました。
日本人は少なかったです。
成田空港直通の電車ですから仕方がないですね。

僕たちは電車が成田に到着する前に佐倉駅で下車します。
もう少し乗ると成田なんですけどね。
駅前に降り立ったのが11時20分でした。

京成佐倉駅の雄姿って階段の屋根しか見えませんけど。
駅前ではありませんが駅からすぐのところに観光案内所があります。
観光案内所としては駅から遠すぎるのでなかなか見つかりにくいです。
もっと看板大きく出しましょう。

案内所でお話を聞いて今日のコースを大体決めます。
佐倉市立美術館から順天堂を見て武家屋敷に戻るコースですね。

駅からまっすぐ南下して長い坂を上ると佐倉市立美術館があります。

由緒正しい雰囲気の佐倉市立美術館。
この美術館のエントランスホールは元川崎銀行の佐倉支店だったそうです。
そのあと佐倉町役場、佐倉市役所、公民館、市立図書館、佐倉新町資料館を経て
現在の佐倉市立美術館のエントランスホールとして
利用されるようになったのだそうです。
こちらでは市民のオランダ展という展覧会が催されていましたが
時間がないので割愛します。
地方都市の町歩きではこのような面白そうな美術展をよく見かけますが
いつも時間が無くて見ることが出来ません。
仕方がないことではありますが残念なことであります。

まずは美術館内の喫茶コーナー
「カフェ・ブォナ・ジョルナータ」で軽食を摂って腹ごしらえです。

「クロックムッシュ」と「スモークサーモンのサンド」美味しかったです。
軽食とは言えないボリュームで少々食べ過ぎてしまいました。
歩くのが難儀です。

美味しいお昼を食べて満足したあとは
ゆっくりと佐倉市街を歩き出します。
少し歩くと歴史生活資料館と言う看板を出した建物がありました。

桃太郎旗がなければ目立たない歴史生活資料館
昔の商店を市が活用して歴史資料館としたものだそうで
佐倉の街の歴史をわかりやすくまとめて展示してあります。

ここで無知な小生は佐倉という町について多くの知識を得ることができました。
とりわけ幕末における佐倉藩主の堀田正睦は時の老中首座として
開国に大きな役割を果たしたのだそうです。
興味深い数々の展示を魅せていただいたあと建物を出ようとすると
館内職員の老婦人が僕たちにわざわざお茶を入れてくれました。

美味しいお茶を頂きながら
街のことに詳しい老婦人のお話を伺いました。
それによるとここから東にしばらく歩くと
堀田邸があって見学できるとのことです。

その前に歴史生活資料館の前の道を少し北に行くと
甚大寺と言う寺があって
そこには堀田家代々の墓があると言うではないですか。
これは見て行かなくてはいけないと思って
少しだけ寄り道をしました。

堀田正睦墓石、このほかにいくつも墓がこの敷地に建てられています。
行ってみるとなるほど甚大寺に
立派な堀田家の代々の墓があって見応えがありました。
佐倉藩の殿様の家系ですからね。

ここから先ほどの歴史生活資料館まで戻って
今度は旧堀田邸に向かいます。
歴史生活資料館の前を通りかかったら
先ほどのご婦人が資料館から出てきて僕たちを呼び止めました。
彼女は僕たちが再び資料館の前を通ったのを見て
堀田家系図のプリントを持ってきてくれたのです。
ご厚意に深く感謝してありがたくこれを頂きました。
これを見れば堀田家のことはもう全部わかります。(←ウソ)

堀田邸は武家に似合わない瀟洒な感じの建物でした。
それもそのはずこちらは堀田正睦の息子
堀田家第11代目の堀田正倫が明治23年に建てたものです。
堀田正倫は伯爵として東京に住んでいましたが
佐倉に邸宅を構えて農事試験場を作ったり
また旧制佐倉中学(現佐倉高校)に多額の寄付をしたりして
佐倉の発展のに尽くしたそうです。

壮麗な玄関の構え
明治期の伯爵邸ですからこのくらいの構えがなくちゃいけませんですね。
見学客は玄関右の廊下みたいなところから上がります。

堀田邸座敷。あの座布団から見る庭がもっとも美しいそうです。たしかに。鞄は小生のものです(^^;)。
邸宅は奥まで広々としています。
この座敷は客座敷だったそうです。

堀田邸を見たあと僕たちは佐倉順天堂に行く予定です。
ちょうど良い具合にバスを見つけましたので
ここからバスに乗って佐倉順天堂に向かいます。

出かけた先でバスに乗るのは好きです。地元の一部になったみたいです。

あこがれの佐倉順天堂はあくまでもひっそりと街角に佇んでいました。

手術道具、顕微鏡、ハルマ和解、解体新書などマニア垂涎の品々(こら!)が展示してありました。
佐倉順天堂は天保14年に
堀田正睦が蘭学者の佐藤泰然を江戸から招いて
佐倉に医院兼塾の順天堂を創設させたのが始まりです。
大阪の適塾と並び称されたと言うからたいしたものです。
お茶の水の順天堂大学の起源がここにあるのを見て
ほとんど感動しましたですね。
残念ながら小生は順天堂には関係ありませんですけど。
建物内の廊下は昔の病院の廊下の雰囲気をたたえていました。

筆者が子供の頃はあちこちの病院がこんな雰囲気でしたよね。
あと廊下の壁に病気の写真や標本が架けてあったりしましたね。

このあと千葉県立佐倉高校まで北上して坂を下ります。
この学校はあの長嶋茂雄を輩出したことで有名です。
明治期の洋風建築の美しい佐倉高校記念館や
そこの保管されているハルマ和解が有名でもあります。
その記念館を見に行ったのですがちょうど改装工事中でありまして
養生のカバーが掛けられていてよく見えませんでした。
もう一つの目当ての地域交流施設も
休日のためか閉館していて残念なことでした。

ここから住宅地を抜けて元の通りに戻って
歴史生活資料館の前の道に戻ります。
この道を西に進んで市立美術館を通り過ぎて麻賀多神社に至ります。
この神社の前の細い道を通って武家屋敷に行きます。
今更ですけど佐倉の町の坂の多さには閉口します。
武家屋敷に行くだけでもきついアップダウンがあるのでした。

旧武家屋敷、当時の武士の暮らしを想像する有力な物証ですね。
支配階級の武士ですが決して豊かな暮らしには見えません。
裏庭に少し畑がありました。
家庭菜園をやっていたのでしょうか。
考えてみると昔はインターネットも電話もテレビもラジオも無くて
ろくな出版物もないし照明がほとんど無いから夜は本も読めなくて
知的に暮らすことが難しかったでしょうね。
そのかわり不便なぶん日常が濃密だったんでしょうね。
武士の家を見るといつもそんな風に思います。

家宝の鎧兜でしょうね。江戸期に入って使うことはなかったですね。
三軒の武家屋敷を見終わる頃には
僕たちはすっかりくたくたになっていました。
思えば今日はずいぶん歩いたような気がします。
この時点で午後3時半でした。
ここまでで4時間ほど歩いたわけですね。
ここからまた坂道を下って上ってやっとの思いで駅まで戻って
外国人で一杯の電車に乗って日暮里まで帰ったのでありました。

今回も佐倉の町についていくつかの新知識を得ました。
充実の町歩きでありました。
いつもながら知らない町に行くと
知らなかったことに出会えて楽しいものです。
何も知らないから何を見ても知識が新たになる幸せを味わえます。
無知なものは幸せなり、と言うわけであります。
だんだん知識が増えちゃうんじゃないかという危惧もありますが
大丈夫です、どんどん忘れちゃうんですから。

戻る




戻る