2003年12月30日


萩、松下村塾
山口県の萩に行って参りました。
年末の休みには萩の松下村塾を見に行こうと思い立ちまして
インターネットで探して宿を取りました。
宿さえ確保して有ればなんとかなるだろうというはなはだ乱暴な計画です。

萩には観光ホテルは沢山あるようでしたが
僕のような男の一人旅が似合うビジネスホテルは少ないようで
検索に苦労しました。
なんとか予約を取れましたので
後は行きの新幹線が取れれば行けるというわけです。
帰り道の新幹線は帰省客の反対方向の列車ですので心配無用ですね。

ガイドブックによりますと
萩に行くのには新幹線の小郡駅で降りて
バスで萩行きに乗るのが正解なのだそうで
瀬戸内から日本海側に抜けるバスに乗るなんて
ちょっと信じられない思いですがどうやらそれが普通らしいんですね。
地図で見るとどうやら40qくらい有るように見えるのですが
特急バスはこの道をわずか1時間10分で走り抜けます。
高速なしの山道ですよ。

萩のような地方都市に行くたびに
もっと日本中に新幹線と高速道路を造るべきだと感じます。
道路は国家が国民に保証するインフラであって
採算性を考えること自体大きな誤りであると思います。

ところで小郡駅には最近のぞみが停まるようになったみたいで
それに伴ってかどうか小郡駅を新山口駅と改名したらしいんですね。
切符を買うときに訂正されちゃいました。
買ったばかりのガイドブックが間違っているなんて悲しいじゃありませんか。
いろいろ改名しないで欲しいものです。

ともあれ朝まだきの6時前に家を出た小生が
東萩の駅前にたどり着いたのが午後二時でした。
いやいや、さすがに遠いですね。

                  東萩駅、どういう訳か萩駅より東萩駅の方がメインみたいです

萩はその名を日本中に知られた観光都市ですので
観光客向けの市内循環バスが走っています。
「まぁーるバス」というのだそうで
東回りの松陰先生と西回りの晋作君というのがあるのだそうです。
これを上手に乗りこなせば萩を縦横に楽しむことが出来るというわけですね。

萩についてすぐ
東萩駅の近くの喫茶店で遅い昼食をとってその「まぁーるバス」に乗って
東光寺というお寺に行きました。
このお寺には長州のお殿様の
毛利家の三、五、七、九、十一代の
何故か奇数代の殿様の墓所になっているのだそうです。
きっと聞いても仕方のない様な訳があるのでしょうね。
墓所そのものは
膨大な数の灯籠が不気味な迫力で見るものを圧倒する
不思議な空間でした。

                    毛利家墓所、沢山の灯籠が不気味さを醸し出します

僕はこのあと駅そばの観光案内所で貰った地図を頼りに
玉木文之進旧宅、伊藤博文旧宅並びに別宅を見学ののち
松陰神社に至ると言う計画をたてました。
しかしこれと思い定めた道をいくら歩いて行っても
玉木文之進の家とおぼしきものは見あたりません。
のみならず伊藤博文の家も見つからないではないですか。

そのうち
なんだかやけに規模の大きい境内を持つ神社の隣に出てしまいました。
これこそがあの松陰神社です。
僕は玉木文之進旧宅伊藤博文旧宅ともに見つからないまま
松陰神社に到達してしまったのです。

仕方がないので松陰神社を見学することにしました。
そもそもこの旅の主な目的はこの神社の境内にある
松下村塾を見ると言うことですので
玉木邸伊藤邸のたぐいはどうであっても良いのです。
あくまでも松下村塾の見学が主体であります。
あえていえば玉木文之進こそが松下村塾の開設者ではありますので
松下村塾を見に来ておきながら
玉木文之進を軽んじる訳にはいかないとも考えられますが
この際致し方なしとも言えますね。
ですよね。

松下村塾は想像通りの小さな建物でありました。
こんな小さな建物からあのような優れた人たちが
綺羅星のように輩出されたのは幕末ならではの奇跡と思われます。

                                これが見たかった松下村塾、狭いです

僕は松下村塾を見ることが出来たので
今回の旅行は既にその目的の大半を達してしまったのでした。
後はおまけです。
そう思うと随分気が楽になります。

そのあと松陰神社にお参りをいたしました。
なにやらお参りの仕方にうるさい決まり事が書いてあって
参拝者にそのやり方を強制する感心しない神社でしたね。
よく読みませんでしたけど
一、最初に軽く礼。
二、二礼。
三、二拍手。
四、一礼。
五、軽く礼。
と書いてありました。
これに従って参拝、厳かな気持ちになります。(ちょろいやつ!)

                                     松陰神社、松陰は神になった

松陰神社の境内に吉田松陰歴史館という
観光地にありがちな民間の博物館みたいなものがありました。
「松陰神社がよく黙っているな」と思うほどスノッブな雰囲気の建物です。
しかし滅多にここまでは来られないこの身には
たとえチープな建物でも松陰先生ゆかりのものは
いつの間に松陰の弟子?
一通りは見ておきたいじゃないですか。

大枚650円払って入場した内部にあったものは
松陰の遺品などはほとんど無くて
彼の生涯の節目節目を蝋人形で表した展示でありました。
これが思いの外に臨場感溢れて見るものに迫るものがありました。
文字による情報はもちろん大切ですが
考証がしっかりしているならばこのような表現も侮れないものでありますね。
良いものを見ました。

この段階で夕方が迫ってきましたので
一応ホテルにチェックインすることにしました。
まぁーるバスでホテル近くまで乗ってチェックインします。
ホテルは典型的なビジネスホテルで
随所が少し傷んでおりました。
長引く不況の折から仕方のないことであります。

                             僕が泊まった宿、ホテルの人は親切でした

一息ついて街に出てみることにしました。
道路は車は少し通るのですが人はほとんど歩いていません。
それでも城下町の方に歩いていくと
辺りはどんどん暗くなってもうほとんど夜です。
少し雨も降り出しました。
誰も知っている人のいない街で
折りたたみの傘をさしながら一人夜道を歩く自分。
お腹もすいてきてなんだかかわいそうな自分という感じです。
ホテルから歩き始めて20分、
この孤独感は何なんでしょう。
街が暗いんです!

道路は町はずれまで来てしまいましたので
これを左折、少し行って更に左折これでホテルの方に向かうはずですね。
少し歩くとパンフレットで見たような風景に出会います。
菊屋家住宅の辺りですね。
これを更に進むと前方に光が溢れる商店街が見えてきました。
これぞ人の住む街と思える明るさです。
あそこまで行けば喫茶店かファーストフードの類があるだろうと
期待がふくらみました。

ところが近づいてみるとこの商店街は
洋品店、おもちゃ屋、雑貨、薬店、時計屋、萩焼の店などでして
僕のニーズには一致しません。
おまけに夕方のせいか
もう半分ほどの店はシャッターを閉めてしまっているのです。
光溢れる商店街に見えたのは
アーケードの街灯の電飾だったのです。

                             土曜日の夜、人はほとんど歩いていません

どうやら夜の街歩きで得るものは少なそうですので
早々に部屋に帰ることにしたのでした。

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2004年01月03日


萩、萩城跡、城下町
いよいよ帰る日になりましたので(一泊ですからね)
荷物をまとめてチェックアウトをします。
チェックアウトのあと
荷物は萩を離れる時間までホテルに預かって貰うことにしました。
こうすれば随分身軽になります。

この日は城跡と武家屋敷、城下町を見る予定です。
まず最初にホテルそばの前原一誠宅を見物します。
前原一誠は萩の乱を起こした人でありますね。
遠目に家を見るだけです。
敷地の中には夏みかんの木がありました。

                                              前原一誠宅跡

城下町方面に足を向けて昨夜の道をなぞるように歩いてみましたが
バスが来ないので少し南下してみたら昨晩見た光る商店街に出ました。
ここにあるバス停の時刻表を見たらすぐにもバスが来る模様ですので
ここでバスを待つことにしました。

                あのバスが噂のまぁーるバスですね、あれは晋作君の方ですね

バスに乗って城跡まで行きますと
いかにも公が建てた萩史料館という建物がありました。
開館時間になっていましたので玄関を開けて入ってみると
受付の人が客に驚いて建物の中の明かりをつけてくれました。
開館時間直後の客は珍しいようです。

                                      なんだか厳めしい萩史料館

そのあと萩城跡に登りましたが
やっぱりお城が復元されていないと実感が沸かないですね。
聞くところによると萩城はかなり小さかったみたいですから
萩の人もわざわざ復元する気にならないんでしょうね。

                 萩城跡、写真には写っていませんけどカップルが多かったです

城下町の武家屋敷に降りて口羽家住宅を見学しました。
毛利家の血を引く高い位の武家のようで立派な住まいでありました。

少し歩いて菊屋家住宅に至ります。
菊屋家は毛利藩専属の商人だったようでかなり繁栄したようです。
家具調度は豪華なものばかりでありました。
家の中にかかっていた柱時計に
伊藤博文のアメリカ土産と書いてあって驚きました。

                               いかにも豪商という風情の菊屋家住宅


                                       見応えのある菊屋家庭園

その後木戸孝允と青木周弼の住まいをあいついで見学
昔の武士の生活を偲んだのでした。
木戸は今更言うまでもない尊皇攘夷の桂小五郎ですね。
青木は元々萩の人ではなかったそうですが
その蘭学を見込まれて萩に呼ばれたのだそうです。
その末裔に元ペルー大使の青木盛久氏の名があったのには驚きました。
途中養子の代があったので血はつながっていないそうです。

                             そのまま映画に使えそうな路地、萩ですね

萩は街並みが江戸時代そのままではないかと思うほどよく保存されています。
明治初期に県庁が山口市になってしまったために
時代の流れから取り残されて
そのため昔の街並みがよく保存されていると聞いたことがあります。
なるほどという感じです。

更に歩いて木造の萩小学校を眺めたりしてバスセンターに向かいます。

                              昔風木造校舎の小学校、冬休み中でした

いよいよ時間が迫ってきたので帰り道に着かなくてはなりませんが
その前にやっぱり伊藤邸玉木邸を見ていこうと決心して
バスに乗ることにしたのです。

松陰神社前で降りて
5分ほど歩くと伊藤博文旧宅と東京での別宅を見ることが出来ます。


                  伊藤博文銅像、小男がフロックコート着ても似合わないですね

旧宅はみすぼらしい木造茅葺きの建物でした。
当時の下級武士の平均的建物だそうです。

                          一昔前の地方の農家は大体こんな感じですよね

別宅は総理大臣の住まいだった訳ですから粗末なはずはありません。
豪華とは思いませんが
当時としては随所にふんだんに使われたガラス窓などは
やはり豪華と言えるものだったのでしょう。

                      要するに総理大臣の自宅ですね。抑えめだと思います

玉木文之進宅はその先5分ほど奥にありました。
こちらも木造の茅葺きの貧乏を絵に描いたような住まいでした。
つい最近まで使っていたような気配があったのは不思議な感じがしました。

              すべては玉木文之進から始まったことを忘れてはいけませんですね

ホテルまで歩いて荷物を受け取り
東萩の駅近くの喫茶店で遅い昼食をとりました。
二日間同じ店で昼食を食べたのです!
美味しいビーフカレーとエビピラフなのでありました。

新山口の駅ではさすがに上りの新幹線がすぐに取れましたですね。
今回もまたお約束のビールと新幹線の帰り道を楽しんだのでした。

                                  500系のぞみ、時速300q出ます

萩の街は期待を裏切らない素晴らしい街でした。
歴史の街としての萩を堪能した僕は
この次は焼き物の街としての萩を楽しみに来たいと考えています。

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