深谷



2006年10月06日


深谷
埼玉県の北部に深谷という街があります。

この町は深谷葱で全国的に有名ですが
ほかに染め物に使う藍玉や煉瓦の産地としても
その名を全国に知られています、たぶん。

さらに明治期の実業界の偉人渋沢栄一を輩出した街としても有名です。
そこで僕たちも今少し深谷の街について詳しくなろうと思い立ちまして
日曜日の朝の高崎線に乗ってみたわけですね。

深谷駅は大宮の駅から53分で到着します。
僕たちが着いたのはちょうどお昼時正午の頃でした。
のんびり普通列車の旅もいいものですね。
遠いような気もしますが意外と近いようにも思います。
本当はもっと遠いような気がしていました。
だって熊谷のむこうですもんね。
若い頃、仕事でこの街には何度も来ていますが
いつも車で来る泊まりの仕事でしたので駅に降り立つのは初めてです。

なんだかすごく格好いいですよね。

深谷の駅は東京駅を小さくしたような煉瓦造りの素敵な駅でした。
それもそのはずです、
東京駅を作った煉瓦は深谷で焼いた煉瓦なのだそうです。
渋沢栄一の日本煉瓦製造会社で生産された煉瓦は
東京駅や日本銀行など沢山の建物に使われたのだそうです。
その格調高い駅舎に感心しているそのわきを
制服姿の中学生の集団がおしゃべりしながら大勢で駅の中を歩いています。
彼らにとってはこの駅舎も日常なんですね。

それにしても日曜日のお昼にこれほど多くの中学生が
制服で歩いているのは不思議に思っていたらすぐにその謎は解けました。
ちょうどその日は北辰テストの日だったのです。
北辰テストの文字を見ると結果に一喜一憂しながらも
その対策をするでもなく無為に過ごしていた中学時代を思い出します。
今では我が息子たちもその年代を
とうに過ぎているのですから月日の過ぎるのははやいものですね。

深谷の駅前には渋沢栄一の像が建っていました。

渋沢栄一氏は青淵翁というのだそうです。

地元の偉人はどうしても塑像が駅頭に建つことになるのですね。
深谷の人が渋沢栄一を大切に思っている心が伝わってきます。
ところで深谷駅前に立って僕たちは空腹に気づきました。
お昼ですからね。

駅前を少し徘徊しましたが頃合いの食堂が見つかりません。
ハンバーガー屋さんを見ましたが
国産かオージー以外の牛肉は食べたくない小生は
ハンバーガーに食指が動きません。
後で調べたらモスバーガーは
オージーとニュージーランド産の牛肉しか使わないそうですね。
それなら安心かも。

少し歩いたら「風車」という喫茶店を見つけました。
店頭の黒板に「ランチ、ポーク味噌煮定食」の文字を見つけて
ここで昼食をとることにしました。
ほかにもいくつかランチがありましたが
ポークの味噌煮が食べたいじゃないですか。
食事をしてコーヒーを飲んでいたら
窓の外の雨脚がどんどん強くなってきました。
傘を持ってきて良かったです。

風車での食事を終えてこの街での行動計画を立てるために
駅近くの観光案内所に行ってみることにしました。
観光案内所は駅舎内にありました。
閑散とした所内でご老体がお一人で店番をしていらっしゃいました。
ここで市内各所の博物館のチラシや市内案内図などを
何枚かいただいて再び雨の駅前広場に出たのでした。
手元のガイドブックを見ると目当ての一つの
煉瓦工場跡の日本煉瓦資料館は土日祝日は休館なのだそうです。
観光客は相手にしていないようです。
ほかに見るべきところは渋沢栄一生地、渋沢栄一記念館ですね。
さらに誠之堂・清風亭というのが近くにあるそうです。
なかなか見るところがあるじゃないですか。
それでバスに乗って渋沢栄一生地に行ってみることにしました。

バスは市内循環バスでして北コース東循環右回りに乗りました。
この市内循環バスは4コースが設定されていまして
北コース南コースのそれぞれに東循環西循環があり合計4コースですね。
そのそれぞれに右回り左回りがあるのですから念が入っています。
これらが深谷市内を縦横に走り回っています。
ただ惜しむらくは本数が少ないのです。
どのコースも一日に2本から3本、多くとも一日4本ですから
観光には使いづらいです。
タクシーを一台チャーターして見たいところを巡った方が良さそうな気もします。

それでも僕たちはこのバスに乗ってみたくてしかたありません。
このバスであちらに行ったら最後、帰りのバスに乗れる保証はありません。
さっき風車でメモした地元タクシー会社の電話番号を握りしめて
帰りはタクシーを呼ぶ覚悟でバスに乗ることにしたのでした。
でももしいつまで待ってもタクシーが来てくれなかったらどうしましょう。
そんな不安を抱きながらやっぱりバスに乗ってしまう僕たちなのでした。

大きいとはいえないバスの車内、これで細い道にもどんどん入っていきます。

バスの乗車券は一人百円でした。
驚いたことにこのチケットはそのまま一日乗車券でありまして
百円で一日乗り降り自由乗り放題なのでありました。
こんなに本数が少なくては
一日にそう何回も乗り降りできるとは思えませんですけどね。
深谷駅から田んぼの中の道をゴトゴト30分
バスは渋沢栄一生家入り口というバス停に着きました。

雰囲気のあるバス停。

バス停周囲には人影もなく人家もまばらです。
第一どちらに行けばよいのか分かりません。
それでも少し周りを見回したら近くの交差点そばに
渋沢栄一生地を指し示す看板がありました。
その方向にしばらく歩くといかにもな感じの
豪農の家屋がありここが渋沢の生家と思われるところがありました。

書いてあったし。

矢印の方向に見える雨に煙る地方豪族の家はどっしりとした重みを感じさせます。
裕福な時期が永かった家のみが許される屋敷の構えです。

左右に広がる漆喰の塀は見事でまるで武家屋敷か寺社のようです。

この家は中の家(なかんち)と呼ばれていたそうです。
生家は明治期に火災で焼失してしまったそうで
現在の家屋は明治28年に再建した物だそうです。
だから生地とか言ってるんでしょうか。

生家は豪農の構えとはいえ一般の民家のようでもあり
ただの見学者である僕たちには門をくぐりにくい感がありましたが
門のはるか奥の母屋にいる人は
なんだかこの家の人と言うよりもか係の人という感じです。
だってど派手な黄緑の安いビニールのジャンパー着ているんですよ。
たばこポイ捨て禁止キャンペーンとかの時に着るようなやつです。
この家の人なら自宅であれは着ないでしょう。

思い切って中に入ると庭先に駅前で見たような塑像がありました。

農家ながら名字帯刀の家柄だったんですね。

これは渋沢栄一が若いときの侍姿の物です。
渋沢栄一はこの地区の豪農の息子ですが
当初討幕派として思想を温めていたにもかかわらず
縁あって一橋家に出仕、
徳川慶喜の弟、徳川昭武に随行してフランスに渡ります。
栄一は一年間のフランス滞在で大いに知識を吸収したそうです。
すっかり欧州かぶれになったわけでして
帰国したときは断髪洋装だったそうです。
そしてそのとき得た知識と思想が
その後の栄一の人生を決定づけたということです。
場を与えられてその実力を遺憾なく発揮したというわけですね。

従ってこの家の庭先に建つ塑像は
渡仏前ないしは渡仏初期の渋沢栄一の像と思われます。
さらに建物に近づいて中にいる係の人に声をかけます。
「こんにちは、見学しても良いですか」
するとその初老のおじさんは嬉しそうに
「どうぞ、どうぞ。ここは渋沢栄一の生まれた『なかんち』と呼ばれるうちですけど
栄一が生まれたときの家は焼けて無くなってしまったんですよね。
ここは明治28年に再建した家なんです」と説明してくれました。

渋沢栄一生家、ただし改築。

さらに少し私が説明してあげましょう、と渋沢家の簡単な説明をしてくれました。
渋沢家は農業、養蚕、藍玉などで裕福な農家だったこと、
中の家同様東の家も有力な農家だったこと、
東の家のいとこ尾高惇忠が栄一の師であること、
惇忠の妹(つまりいとこ)が
栄一の妻であることなど様々なことを教えてくれました。
非常に興味深かったです。

さらに建物の外に回ると
今度は別の中年氏が現れて倉や物置の説明をしてくれます。
なかでも驚いたのは栄一の死後遙か後に
学校法人青淵塾渋沢国際学園の学校施設として改造利用されたと言うことでした。
母屋の二階や物置や蔵を改造して教室や宿舎にしていた模様です。
多くの外国人留学生がここに学んだそうです。
しかし平成12年同法人は解散し施設は深谷市のものになったようです。

思いがけず長居をしてしまった渋沢栄一生家を辞して
渋沢栄一記念館に向かいます。
さっきのバス停まで歩いてきて時刻表を確認します。
帰りはタクシーを呼ぶつもりでしたが
周囲の田園風景を見ているうちにタクシーが来てくれる保証がないように思い
帰りもバスを利用するべきだと考えたのです。
第一バスならばさっき買ったチケットが
一日有効ですので今度はただで乗れるはずです。

しかしバスで帰ると決めると時間の制約があり
誠之堂・清風亭は見て帰ることはできそうもありません。
途中で降りてしまうともう次のバスは遅すぎて乗れません。
本数が少ないのですね。
それでもバス停で時刻表を見るとバスの時間まではまだ一時間以上有ります。
これならば渋沢栄一記念館を見てくることは出来そうです。
僕たちは手元の地図を頼りに記念館を探しました。
記念館はどこか異国の神殿を思わせるような荘厳な建物でありました。

周りじゅう田んぼの中にこの神殿がぽつんと建っています。
建物の半分は体育館のような作りの多目的ホールでした。

その一部が渋沢栄一資料室として一般に公開されていました。
この資料室を見ることで渋沢栄一の人となりを詳しく知ることが出来ます。
これで今日から君も渋沢博士、と言うわけです。

渋沢栄一翁の業績の資料が豊富に展示されて見る者を驚かせます。
展示物の中でも特に彼が起業に関わった企業の一覧は圧巻です。
そのあまりの数の多さににわかには信じられないほどです。
中には起業の便のため
渋沢栄一の名前だけ借りに来た企業も相当数あったのでしょう。

資料館は興味深くて二回りほどしましたが
それでもバスの時間にはまだ早くてしばらくロビーで時間をつぶしました。
建物の外はまだ雨が強くてしばらくは雨宿りです。
それでもバスの時間が迫って
渋沢栄一記念館入り口のバス停まで行かなくてはなりません。
案の定バス停は人っ子一人いません。
そのわりに地元の人のトラックや乗用車が
ひっきりなしに水たまりの水をはねて走っていきます。
夕闇迫る田んぼのど真ん中で傘を差して
いつ来るともしれないバスを待っているのはかなり心細くて
何度も何度もバスが来る方向に目をこらしていました。
ですからバスが来るのが見えたときは嬉しかったですね。
前のバス停でバスが止まるのが見えました。
そのくらい一直線で見通しがきくのです。

無事バスに乗れて車内を見ると案外これが混んでいるのですね。
市民の足として立派に機能しているようです。

夕方の深谷駅ホーム、日曜日のせいか閑散としていました。
深谷の駅から無事電車に乗ると
一日の疲れがどっと出て大宮まで熟睡してしまったのでした。

考えてみると今日は
深谷の駅と渋沢栄一生地と渋沢栄一記念館との
3カ所のみの見学になってしまいました。
やっぱり歩きとバスじゃ限界があるようです。

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